矜持ある装いに規律ある花を挿す

服のことを主につぶやいていきます。たまにそれ以外のことも気ままに。

自己責任論の押し付けと規律

安田純平さんの一件がなんだか世間を賑わせていて、やっと少し落ち着いたように思う。

 

特に自己責任論や自作自演論などといった話題が多く感じた。

 

安田さんが悪いのか悪くないのかはともかく、自己責任ということについて考えることは一つ有意義だ。


今回の件もそうだが、こういった類の話には必ずと言っていいほど「自己責任だ」と切り捨てる人が一定数出てくる。


「危険だとわかっていて行ったんだから他人に頼るな、おめーの責任だ。」


と軽々と発言してしまう人達だ。

 

 

他にも、約2年前に起こった、まだ記憶に新しいであろう戦後最悪の大量殺人事件と言われている相模原障害者施設殺傷事件。

 

犯行に及んだ男は、「障害者なんていなくなってしまえ」という発言をしている。

 

そしてこれに賛同する声が多く上がっていたことも忘れてはいけない。


社会保障などの問題もそうだ。


「自分の判断で離婚して子供を育てていくと決めたんだから自分の責任だ。」
「路上生活、貧困生活から抜け出せないのは本人の努力不足だからだ。」
「不摂生で健康を害したのは本人の管理能力不足だ。」


こういった発言は必ずでてくる。

 

もう一度言う。“必ず”でてくるのだ。

 

こういった考え方の根底にあるものは優生思想だ。

 

そんな発言が必ず出てくるということは、優生思想が今もずっと根付いているということだ。

 

そして、僕を含め、これは他人事ではない。

 

例えば、会社で窓際へ追いやられ、会社で自分の価値を感じられないという人もいるかもしれない。この自分と他者の比較。

 

他にも、「同性愛者」「外国人」など何かを分類した時点でこの思想が生まれる可能性がある。

 

もちろん比較なしでは何かを判断できないのが僕たちだけど、その思考の行先が自己責任論に帰結することが危険をはらんでいるんだ。


なにか不都合な事象、現象に対し自分自身が自己責任だと捉え、自分ができる改善策、解決策を見出すことは悪くないと思う。


でも、なにか不都合なことに巻き込まれている当事者に対し、第三者が“自己責任だ”と切り捨てることには違和感を感じる。


優生思想が蔓延することが必ずしも悪い結果につながるとは限らないのかもしれない。


ただ、歴史的な事実を見るとそれは良い結果を生む思想とは言い難い。

 

ナチスホロコーストなどを考えれば、それは容易に想像できる。


そしてそういった思想が蔓延すれば、それは自分たちの身にも降りかかることになるということも考えなければいけない。

 

僕たちが自己責任論を誰かに押し付ければ押し付けるほど、国、国家は僕たちを軽視する。


当たり前だ。

 

「自己責任って自分たちで言い出したんだから、僕たち(国家)は社会を保障しなくても別にいいんだよね。」

 

ということだ。


目の前で起こっている“現象”とそれを“体現している人”を混同せず、きちんと分別と判断できる教養を一人一人が身につけていかないといけないんだなと改めて思わされる出来事でした。簡単なことではないけれど。


何はともあれ、何でもかんでも「自己責任だ」の一言で切り捨てる軽々しい態度は最終的に自分の首をしめることになる。

 

情けは人のためならず。因果応報ってやつですね。


服装がファッション(流行、トレンド)としてスポーティだったり、軽くなったりするのは、まぁ仕方ないで見過ごせるけれど、思想や思慮まで軽くなるのはなんだかなぁと阿藤快さんばりに声が出てしまう。

 

やっぱり、思想にしても服装にしても自分のスタイル(規律)を持つということが必要だと僕は考える。